神田のうた⑤ ◎「電車唱歌」

神田のうた⑤ 

◎「電車唱歌
 かつて東京の町には網の目のように路面電車の線路が張り巡らされていた。昭和三〇年頃の路線は四十一系統におよび、九百三十四台の車両がざっと百七十万人の乗客を運び、東京の交通の中心を担っていた。
「チンチーン、動きまーす」。車掌さんのけだるそうな声。車掌の頭上に運転台とつながっている丈夫そうな紐が下がっていて、それを引くと、「チン、チーン」とベルが鳴って運転手に合図を送る。車掌の腰のあたりにはガマ口を大きくしたような黒いかばん。このかばんには乗車券や乗り換え切符などが入っていた。運転手は立ったままコントローラーやブレーキを操作して運転、時速およそ15キロでガタンゴットンと大きな音を立ててゆっくり走る。中高年の方なら都電を懐かしく思い出されるだろう。
 子どもたちにとっても電車は憧れの的。「電車ごっこ」は子どもの遊びの定番だった。紐を輪に結び、その中に先頭が運転手、次に何人かのお客、最後に車掌さんがつながり、「チンチーン。次はどこどこでーす」と電車のまねをして遊んだ。
私が物心付いた昭和二十年代は都電の全盛期。五十年以上たった今でも、上野公園から不忍池に沿って走る辺りのうっとりするような美しい景観や新宿三光町から新田裏の専用軌道に入り、速度が上がるときの乗り心地をまざまざと思い浮かべることができる。
小学校は本郷の追分小学校だったが、弓町の自宅から徒歩通学の距離なのに電車に乗りたくてたまらない。親にダダをこねて1ヶ月だけ定期券を買ってもらったこともあった。本郷三丁目から東大農学部前までのわずか三駅の都電通学は忘れることのできない思い出だ。
当時「電車」といえば「都電」のことを指し、西武線東横線などの私鉄の電車は「郊外電車」と呼んでいた。時代とともに呼び方も変る。
電車を題材にした唱歌や童謡はたくさんあるが、その中で東京の子どもたちに愛唱された歌に明治三十八年に生まれた「電車唱歌」がある。

◎「東京地理教育電車唱歌
         いしはらばんがく・作歌
             田村虎蔵・作曲

 一 玉の宮居は丸の内、近き日比谷に集まれる、
  電車の道は十文字、まず上野へと遊ばんか。
 二 左に宮城、おがみつつ、東京府庁を右に見て、
  馬場先門や和田倉門、大手町には内務省
 三 渡るも早し、神田橋、錦町より小川町、
  乗りかへしげき須田町や、昌平橋をわたりゆく。
 四 神田神社の広前を、すぎて本郷大通り、
  右にまがりて切通し、仰ぐ湯島の天満宮
 五 いつしか上野広小路、さて公園に見るものは、
  西郷翁の銅像よ、東照宮のみたまやよ。
 六 博物館に動物園、パノラマ、美術展覧會、
  不忍池畔の弁財天、四季の眺望(ながめ)もあかぬかな。
(『東京地理教育電車唱歌』・明治三十八年九月二十日初版、文錦堂・文美堂発行より)

 電車唱歌鉄道唱歌のように全国的には流行らなかったが、明治、大正の東京の子どもなら誰でも知っている歌だった。レコードにも吹き込まれ、ドイツライロホン(明治三十九年・千葉千代子・細井富士男他・歌)が最初のものだと思われる。それから明治末年吹き込みのローヤルレコードにも納所文子の歌で吹き込まれている。このレコードはちょっとしたヒット盤となったようだ。今回はスヒンクスレコード(花房静子・歌、渡辺吉之助・ピアノ・大正九年)のレーベルを写真で紹介した。また、「電車唱歌」をテーマにしたレコードもあり、大正九年頃の「お伽歌劇・電車ごっこ」(音羽兼子・天野喜久代他)は、上野動物園の場面で初代江戸家猫八の動物物まねなどをまじえた面白い構成になっている。これも当時歓迎されたレコードであった。
 東京の路面電車の歴史は、明治三十六年八月二十二日、東京電車鉄道会社(東鉄)が新橋〜品川八ツ山間開通が最初。東鉄は明治十五年に開通した東京馬車鉄道の線路を利用し、品川〜上野〜浅草線を経営。同年九月には東京市街鉄道会社(街電)が数寄屋橋〜神田橋間を開業。明治三十七年十二月には東京電気鉄道が御茶ノ水〜土橋を開通し、さらに御茶ノ水〜神楽坂〜四谷見付〜虎ノ門と外堀に沿って線路を敷き、「外堀線」と呼ばれた。
新しい文明の乗り物は市民の人気を集め、絵本や双六や絵葉書などにとりあげられた。
 この電車唱歌もそのころできたものである。 
 明治三十九年、料金の問題などで三社合併、東京鉄道となり、四十四年八月、この会社を東京市が買収し東京市電気局が発足、「東京市電」となった。
 大正12年の関東大震災で大きな被害を受けるが、順調に復興、昭和3年には百十八万人の乗客数まで回復する。戦災の被害も大きく、車両六百二輌、軌道損害五十六ヵ所に及んだ。二十五年六月の乗客調査では百六十四万六千五人。
 網の目のように広がった都電路線の中で、神田周辺は複数の路線の電車が行き交ったところ。とりわけ「乗りかへしげき須田町や・・・」と、電車唱歌に歌われた神田須田町の停留所は、路線網が広がった時代には、最も多くの路線が交叉するところだった。沼田明治さんの調査によると、[1]系統(品川駅前〜上野駅前)、[10]系統(須田町〜渋谷駅前)、[12]系統(両国駅前〜新宿駅前)、[19]系統(通り三丁目〜王子駅前)、[24]系統(須田町〜福神橋)、[25]系統(日比谷公園〜西荒川)、[26]系統(今井〜東荒川)、[29]系統(須田町〜葛西橋)、[30]系統(須田町〜寺島二丁目)、[40]系統(銀座七丁目〜神明町車庫)と、十の路線が集まり乗り換え客で終日雑踏が渦巻いていたのだ。
交通渋滞解消、財政の問題などの理由で昭和四十二年十二月より順次廃止されることとなり、昭和四十七年中にはほとんどの路線が撤去された。現在、都電は荒川線だけである。
都電を利用していたときは、あの緩慢さにじれったさを覚えたものだが、今思うとあのスロースピードがなつかしい。それに、なんといってもよかったのは、地下鉄と違って外の景色を眺めることができたことだろう。車外の情景をのんびり見て楽しむにはあのくらいのスピードがぴったりだと思う。タクシーやバスじゃ速すぎて落ち着かないだろう。
電車に乗って東京の街を眺める楽しみがなくなってしまったのは少々寂しい感じがする。(岡田則夫・記)
 
(掲載誌・神保町のタウン誌「本の街」)