神田のうた④ ◎「神田囃子」

◎「神田囃子」
 今年は二年に一度行われる神田祭の本祭りが行われる年である。祭りのクライマックス、約百基の町神輿が参拝する神輿宮入の当日は、神田明神の一帯は善男善女で埋め尽くされる。
お祭りに欠かせないものは祭り囃子だろう。
神田囃子をはじめ江戸の祭り囃子は、葛西囃子を源流とする。この囃子は葛西領の代官伊奈半左衛門が、香取明神の神主能勢環と図り、神楽の囃子をもとに創作したものと言われている。葛西囃子は祭礼はもちろん、五穀豊穣の奉納囃子として領内に奨励され、土地の若者たちの楽しみにもなった。日吉神社神田明神の祭礼にも出演するようになり、広まっていった。神田囃子もそうして伝わった一つである。昭和二十八年には東京都無形民俗文化財に指定された。同時に葛飾・江戸川の葛西囃子も指定されている。
 神田囃子の楽器は、正面から見て鉦(ヨスケ)一人、篠笛(トンビ)一人、大太鼓(大胴)一人、締太鼓二人の構成。民謡研究家の亀ケ谷行雄氏によると、基本のリズムは締太鼓が作り、笛が全体の流れを進行する重要な役割を持つそうである。
 神田囃子の特徴に「切囃子」というのがある。これは、いくつかの曲を連続して演奏する一種の組曲形式のことをいう。基本的な曲の流れは五曲。「屋台」−「昇殿」−「鎌倉」−「四丁目」−「屋台」と続き、十五分ほどで一演奏が終わる。「四丁目」には「玉」と言って、ジャズのアドリブのように個性的な「手」をまじえ、独創性をアッピールする。ここは聞かせどころだ。
 衣装は着流しに半纏、白足袋という江戸前の粋なスタイル。
 戦前、神田囃子の名人と呼ばれたのは二代目長谷川金太郎である。彼は昭和二年、「神田祭り保存会」を設立、神田囃子の家元となり、昭和二十三年に没するまで、長谷川金太郎社中を組織して演奏活動をするかたわら弟子の養成に努めた。金太郎の門下には青山啓之助氏をはじめ多くの弟子を輩出し、伝統の至芸を伝えた。神田囃子の恩人と言ってもよいだろう。
サトウ・ハチローが二代目長谷川金太郎宅を訪問した時の印象記が『僕の東京地図』(昭和十一年・有恒堂発行)に出ている。この記事によると長谷川金太郎は、「提灯屋の金さん」「蛎殻町の金さん」「チャンチキの金さん」などの愛称で呼ばれていた町内の有名人だったそうだ。
 住まいは蛎殻町一丁目六番地と四番地の間を入り、笠原という印刷屋とかばん屋の間を入った左側で、商売は提灯屋とアサリの剥き身などの貝類を商っていたそうである。店の二枚のガラス戸の一枚には提灯の絵と鼓の真中に「神」の字を配置した定紋が描かれていた。これは提灯屋と囃子の家元をあらわしたもの。そしてもう一枚には、「新鮮な」という文字の下にハマグリの絵が描いてあった。いかにも下町らしい店屋の佇まいを感じる。
ハチロー氏が中に入ると「よォおいでなすった。お祭りも威勢がわるくなったね。みこしだってなっちゃねえや、あっしらも、みこしを迎える囃子をやるのに、はりあいがなくなったね」と、べらんめー口調で迎えた。こういった金太郎氏の人柄を、サトウ・ハチローは「シャコみたいな爺さんだ。喋るたびに、シワがゆれる。何のことはないシワの間からべらんめーが出てくるんだ」と面白くとらえている。
 平成の今日では長谷川金太郎社中の演奏を生で聴いた人は少なくなったが、幸いにレコードが残っている。私もレコードで長谷川金太郎を知った一人である。コロムビアに「麒麟、亀戸、階段、夏祭り・鞨鼓、四丁目、屋台」(昭和四年)、オデオンに「屋台・聖殿」(昭和四年)、リーガルに「御輿囃子・馬鹿囃子」、「壽獅子」(昭和十三年)などの貴重な録音を残している。今聴いてもきびきびとした迫力あるすばらしい演奏である。
 なお、江戸囃子のレコードは、このほかにもSP盤だけでも約二十枚発行されている。古い録音としては明治三十九年のドイツ・ベカ「屋台囃子」(東京馬鹿囃子連中)がある。これは笛がすばらしい。アメリカ・ビクター(明治三十九年)にも「馬鹿囃子」(阪東小三郎・大太鼓、小林紋左衛門・カネ、石田・太鼓、小川・笛)が吹き込まれている。明治末期のローヤル(日蓄)にも東京馬鹿囃子連中の演奏による「屋台、ひょっとこ踊」、「屋台、鎌倉、四丁目」が録音されている。
 
◎落語のなかの祭り囃子
 祭り囃子は寄席演芸とも密接な関係がある。寄席囃子の「四丁目」は祭り囃子を元にしたもので、早い調子の囃子で、手品や、曲芸の地囃子として用いられている。寄席囃子の「鞨鼓」も同様である。それから、鉦のことを寄席のほうでも「ヨスケ」と呼んいるのも祭り囃子と同じである。
祭り囃子がでてくるおなじみの落語は「片棒」と「祇園祭」。「片棒」はけちん坊の赤螺屋吝兵衛が自分の身代を三人の息子のうちの誰にするか、一人ずつ呼んでお弔いのしかたをきき、一番気に入った返事の者に決める噺。先々代の「留さん文治」がよくやっていた。この噺の中で二番目の息子が親父の弔いには木遣りや手古舞や神田の祭り囃子連中を頼んできて派手に練り歩くと答えて親を唖然とさせる。息子が身振り手ぶりよろしく祭り囃子の一節をやるところはどっと笑いがくる。
囃子をたっぷり聞かせるのは「祇園祭り」。江戸っ子と京男が互いに自分の郷土を自慢しあう噺だ。八代目の桂文治の十八番で、近年では先代金原亭馬の助や弟子の馬好がよくやっていたのを思い出す。
聞かせどころは、江戸っ子が江戸囃子を「口囃子(口唱歌)」で巧みに笛、太鼓、鉦の音を模写して、言い立てるところだろう。
文治師匠のレコード(テイチク)からその一部を文字で再現してみよう。
 「チャン、ドゝゝゝゝドンドゝチャン、チャンチャン、ドドチャンチキチッチチ、ドゝゝゝゝテンドンチャンチキチッチチ、オヒャアイトロオヒャアイトロオヒャアイヒャイトロヒャトヒャララ、ピッ、チャンチキチッチドドチャンチャン、コラショ・・・・」。
と、こんなあんばいである。「チャンチキ・・」は鉦、「ドドドド」は太鼓、「オヒャアイトロ」は笛の音をあらわしたもの。
 寄席で落語家が「祇園祭り」を高座にかけるようになると神田祭りの季節が近づいてくる。(岡田則夫・記)
(掲載誌・神保町のタウン誌「本の街」)