神田の歌⑦「なんだ神田」の歌 

◎書生節「スカラーソング・(なんだ神田の歌)」   

 東京の地名を読み込んだ無駄口や洒落言葉は多い。「恐れ入谷の鬼子母神」、「嘘を築地の御門跡」などは、今も落語や芝居の中に生きているし、日常生活の中でも聴くことがある。神田を使った無駄口には「なんだ神田の八町堀」や、縁台将棋などで使う洒落で、「仕方中橋神田橋」というのもある。昔の人はこういった言葉遊びで会話を弾ませ、人間関係を円滑にしていたのだろう。
「なんだ」とくればその次に「神田」とくるのが常套句だ。これを続けて言うと「なんだ神田」。この単純な洒落は、江戸の昔から好んで用いられ、語呂合わせの洒落の中でも横綱クラスである。もはや古典的な洒落の部類に入るが、今も生きている。
 試しにインターネットで「なんだ神田」を検索してみたら、あるわあるわ、二六三件も並んだのには、恐れ入谷の鬼子母神でした。
「なんだ神田」をホームページ名に使っている人もいらっしゃれば、掲示板のニックネームに使っている人もいる。店屋の屋号もあるし、「なんだ神田のロールキャベツ」という、ちょっと食べて見たくなるようなメニューを売物にしている洋食屋さんもある。漫才師の芸名の大空なんだ・かんだ。これは有名だ。多いのは文章の中で、「なんだ神田でなんとか・・・」というパターンで、みなさん思い思いに使っている。
 それでは、歌の文句に「なんだ神田」が出てくる歌がないかと考えたら、私がぱっと浮かぶのは、小林旭歌うところのコミックソング「恋の山手線」(コロムビア)。ここにも「なんだ神田」が出てくる。
作詞は小島貞二、作曲は浜口庫之助
「上野オフイスのかわいい娘 声は鶯谷わたり 日暮里笑ったあのえくぼ・・・」が出だしで、山手線をぐるっと回る。回る方向は内回り。途中、新大久保と浜松町、それにあとから出来た西日暮里が抜けているのはご愛嬌。「すっ東京なことばかり、なんだ神田の無駄遣い、御徒な恋だと言われても、山手花咲くにも近い 青くホームに灯がゆれる」がラスト。コミカルな歌詞を、あのカン高い小林旭の歌いっぷりが不思議な調和を見せていていて、独特のおかしみがある。コミカルソングだからとおどけて歌っていないのもよい。その後「山手線」は「山の手線」と改まるが、題名は依然「山手線」だ。
 この歌のベースになったのは柳亭痴楽の「恋の山手線」。本家・柳亭痴楽の「綴方狂室」では「なんだ神田の行き違い、彼女はとうに秋葉原、本当に御徒なことばかり、山手は消えゆく恋でした」と結ぶ。やはりここでも「なんだ神田」がでてくる。
昭和三十年代、痴楽の「綴方狂室」の人気はすばらしいのもで、ラジオ・テレビによくでていた。少年雑誌にも取り上げられたほど。「東京娘の言うことにゃ、サノ言うことにゃ、柳亭痴楽はいい男、鶴田浩二錦之助、あれよりグーンといい男」の「青春日記」や「カラーカラー今の世は・・・」の「カラー時代」など、あの顔面筋肉をゆがめて熱演する痴楽師匠の高座を懐かしく思い出される方も多いだろう。
 さて、古い唄では「スカラー・ソング」の冒頭に
やはり「なんだ神田」がでてくる。流行歌がまだ「流行唄」と呼ばれた明治・大正時代、演歌師が大道で歌っていた演歌である。
 初めてバイオリンを使った演歌師・神長瞭月の作。明治末年のしがない安サラリーマンの通勤風景を歌ったもの。スカラーソングは、一名「学生節」とも呼ばれ、レコードにもなっている。
 元気がよい明るい歌なので、演歌師が客を集めるときにまずこの歌を歌った。テーマソングのようなものである。歌詞は、歌い手によっていろいろあり、「なんだ神田の須田町の・・・」だったり、「都に名高き須田町の・・」だったりする。メロディは、「箱根山(箱根の山は天下の剣・・・)」と同じ。演歌師の歌った唄は、既成の有名曲の旋律を借りたものが多い。昔の日本の流行唄は、歌詞やメロディは自分が好きなようにくずして、思い思いに歌っていた。そこが今の流行歌にないよさである。洒落っ気があって風刺が効いていて、のんきで、のほほんとしていて、おおらかなのが特徴だ。歌詞やメロディがきちっとするようになったのは、昭和に入って、専門の作詞家、作曲家、歌手が一体になったレコード流行歌が作られるようになってからである。それまでは、演歌師や芸者や寄席芸人が歌を流行らせる担い手で、歌は口伝えで流行っていたのである。だから、正確なメロディでないと歌えない現在のカラオケでように厳密ではなく、自由気ままに歌えばよかったのである。

◎「スカラーソング」
 石田一涙・唄
  なんだ神田の神田橋、朝の五時ごろ見渡せば
  破れた洋服に弁当箱引っかついで
  てくてく歩きの月給九円(くえん)
  自動車飛ばせる紳士(ゼントルマン)を眺め
  ホーロリホロリと泣き出し
  神よ仏さんよ良く聞きたまえ
  天保時代のちょんまげおやじは
  今じゃ哀れなこの姿
  家では山ノ神が麻糸つなぎの手内職
  十四の娘はタバコの工場
  臭いはすれどもキザミも吸えない
  いつもお金は内務省かくこそあるなれ
  生存競争の活舞台
(スタークトンレコード・5243)
 石田一涙は石田一松の別名。演歌師をしながら法政大学を卒業。レコードの吹き込みも多い。
 演歌師は縁日や盛り場で人を集め、バイオリンを弾きながら歌を歌い、「歌本」を売った。かすりの着物に袴をはき、朴歯の下駄という書生姿。たいていは二人組みで、一人が歌い片方が歌本を売る。演歌師は本を売ってお金を稼ぐのだから、正確にいうと商人の分野に入る。この歌本は新書版位のサイズで八頁くらいのぺらぺらのもの。歌の文句とハーモニカでも大正琴でも使える簡単な楽譜が印刷されている。苦学生が多かったので、彼等の歌う歌を「書生節」ともいい、レコードの種目もそうなっている。ラジオもテレビもなかった時代、縁日は買物、娯楽が両方楽しめる憩いの場所でもあった。
参考に戦前の神田・九段周辺の主な縁日を挙げておこう。九段下の世継稲荷(一・六・十一・十六・二十一日)、神田新銀町の一八稲荷(一日・八・十一・二十一日)、神田松富町の三社神社(二・五日)、神田松下町出世不動(二・七・十三・十七日)、神田明神下講武稲荷(三・十二・二十二日)、神田神保町五十稲荷(五・十・十五・二十・二十五)、神田富山町毘沙門(六・十六・二十二)、神田佐久間町道了様(七日)、神田三崎町の三崎神社(九・十九日)、神田龍閑町の金比羅(九日)などが主なところ。
 縁日で演歌師の歌声を聞くことができたのは昭和十年頃まで。流行歌はレコードによって流行するようになると、演歌師の使命は終わった。(岡田則夫・記)
(掲載誌・神保町のタウン誌「本の街」)