神田のうた⑧ 正岡容の『英霊布団』 (春日井おかめ・柳家小半治・古今亭志ん生)

◎『英霊布団』    

 むかしの神田は、今よりももっと遊興気分の濃厚な町だった。
 寄席や映画館の密集地でもあった。おもな映画館を挙げると、神保町の「東洋キネマ」、淡路町の「シネマパレス」、表猿楽町の「神田日活館」、表神保町の「南明座」と「新声館」、連雀町の「神田館」、松田町の「神田キネマ」、柳原河岸の「神田松竹館」、五軒町の「日本キネマ」。(昭和六年版『大東京年鑑』)。
また寄席は、表猿楽町の「喜らく」、通新石町の「立花亭」、美土代町の「入道館」・「民衆座」、小柳町の「小柳亭」、三崎町の「三市場」、富松町の「富松館」、表神保町の「川竹亭(神田花月)」、「浪曲研究座」、連雀町の「白梅亭」など、狭い範囲にこんなにあった。(『東京演芸場組合人名簿(大正十五年現在)』。
神田の寄席の中で、ずっと後まであったのが、今回のお話の舞台になる「神田立花亭」である。
立花亭は須田町交差点の角の、果物で有名な万惣ビルの右隣にあった。昔の町名で通新石町十三番地、現在の町名だと神田須田町一丁目十六の五になる。現在、立花亭跡は「べこたん」という、炭焼き牛タンの店の横の路地を入ったところである。
立花亭は、白梅亭と並び、神田でも古くからの寄席として知られ、格も高かった。第二次・戦後の第四次の落語研究会の会場でもあった。昭和二十九年暮れに廃業するまで、神田で唯一の寄席として伝統の灯を守った。平成の今日では、この寄席に通ったことのある人は七十歳以上になるだろう。私は廃業した時はまだ子どもだったので、残念ながら行くことができなかった。
今、現役の噺家さんで立花亭の高座にあがったことのある人は数えるほどだと思う。昭和二十六年入門の都家歌六師匠(七十五歳)は神田立花亭をよく覚えていらっしゃる。
「うなぎの寝床のような細長い寄席でしたね。客席は二百くらい。あの辺は焼け残りまして、戦前の建物のままでした。昔は畳敷きだったそうですが、私の頃には立花演芸場と名を変え、椅子席になっていましたね。NHKのアナウンサーの松内則三さんが経営に参加するというので、話題になったこともあります。それから、たしか、五代目古今亭志ん生が真打披露をしたのはこの立花だと思います」と話してくれた。

◎神田立花亭の『英霊布団』
昭和十五年八月、ポリドールから『英霊布団』という二枚組の浪花節レコードが発売された。正岡容の作。口演は少女浪曲師・春日井おかめ。
この作品は、昭和十五年四月二十二日の都新聞に載った、つぎのような内容の記事がもとになっている。
「落語好きだった若人が戦死。その母親が神田立花亭を訪れて、息子のためにこの木戸銭を受け取ってくれといって立ち去った。席亭も芸人も感激して、毎夜寄席の一隅に座布団を敷いて、英霊の御霊を祭った」。
正岡容はこの市井の悲話に激しく魂を揺さぶられ、浪花節脚本に書き上げた。この浪花節レコードは、普通のレコードとちょっと趣が違っている。
古今亭志ん生の落語と柳家小半治の音曲をはさみ、さらに笑い声や拍手も入り、今の言葉でいうなら、ライブの雰囲気で寄席の臨場感を盛り上げる構成になっている。ダイジェストでさわりをご紹介しておこう。

『英霊布団』
 春日井おかめ・口演
 (フシ)三味線太鼓賑やかに、ここは神田の演芸場、今舞台では売り出しの、古今亭志ん生

 と外題付けがあり、拍手が入って志ん生が登場、「女給の文(ラブ・レター)」の一席。(笑い声)。続いて柳家小半治が「腹立ち紛れにすり鉢をこわし、あしたの朝からおとし味噌」と江戸前の都々逸を唄う。(拍手)。
(フシ)どっとどよめく笑いの渦、中に年頃四十あまり、いと品良き女客、笑いをよそにハンケチで、まぶた押さえてすすり泣き、客が笑えば笑うほど、歯を食いしばり身を震わせ、すすり泣き、はては我慢しかねたか、あたりかまわずわっと泣く・・・。
(中略)
・・・まわりのお客が驚いて声をかけると、
落語が好きな一人息子が南支で戦死して命日の今日、この立花に来たが、おかしければおかしいほど、あの子が喜ぶだろうかとついほろほろと泣きました。次の日、立花の木戸口にやってきたかの婦人が、倅の代わりにどこかへ座布団を敷いてくださいと、木戸銭を置いて姿を消した。席亭も楽屋の芸人も感に打たれ、いずれも涙。
(フシ)毎晩毎晩場内に、御霊のために座布団敷き、落語報国回向の心、熱演続けているという。さぞや勇士も天国で、声なき笑いを笑うていよう、声なき笑いを笑うていよう。
(ポリドール・P3013〜3014)
 このレコードが発売になった後、正岡容が立花亭へ行くと、無人の座布団の上に楷書体で「英霊布団」と書いた半紙が置いてあったという。
 春日井おかめは昭和二年、東京生まれ。レコード吹き込みは早く、昭和九年四月、梅の家おかめの芸名で梅の家一徳とのコンビで、「少女掛合萬歳」(ポリドール)を出したのが最初。七歳の子どもの時だった。その後、春日井梅鶯の門に入り、春日井おかめを名乗る。張りのある高音がピーンと伸びて、天才少女浪曲師といわれた。昭和十一年六月に「乃木将軍と辻占売」を出し、これがちょっとしたヒットとなり、次々とレコードを吹き込む売れっ子になった。その数四十枚ほど。『英霊布団』は、時事物だったせいか、ロングセラーにはならず、おかめのレコードの中ではさほど売れなかったようだ。
私は少年の頃、正岡容の『寄席風俗』を読んでこのレコードの存在を知り、長年探し続けていたが、なかなか見つからず、入手できたのは最近のことである。やっとめぐり逢えた時には、孫がいる年齢になっていた。(岡田則夫・記)
(掲載誌・神保町のタウン誌「本の街」)