神田のうた⑨藤山一郎の「ニコライの鐘」

「ニコライの鐘」    

聖橋を御茶ノ水駅に向かって中ほどまで渡ると、右手にうす緑色の円い屋根のニコライ堂が見える。神田の街でニコライ堂のあるここ駿河台は異国情緒を漂わせている一画である。ニコライ堂の名称の由来は、幕末に来日し、五十年にわたって布教活動をしたニコライ大主教の名にちなむもの。正式名称を「東京復活大聖堂教会」という。
 明治十七年三月に着工、七年の歳月を要して明治二十四年二月に完成した。
 ロシア工科大学教授のミハイル・シチュールポフが設計し、英国人ジョサイア・コンドルが工事を監督した。建築様式はビサンチン様式と呼ばれ、中央に円形のドームをもつのが特徴である。大正十二年九月の関東大震災で大きな被害を受けたが、岡田信一郎により修復工事が行われ、昭和四年に完了した。
 建坪およそ三百十八坪、聖堂の高さは三十五メートル、壁の厚さは1メートルから一メートル六十三センチもあるレンガと石による堅牢な造りになっている。昭和三十七年六月、国の重要文化財に指定された。周囲に高い建物がなかった昔は、見晴らしのよい高台にそびえたつこの聖堂は、下町のどこからでも見ることができた。
聖堂の横に鐘楼があり、ここに大小六つの鐘が収められている。鐘は一八八四年にロシアで製造されたものと伝えられている。一番大きい鐘は高さ1メートル六十センチ余りもある。もともとは函館ハリストス教会にあったものを移したものだ。
鐘は日曜日十時からの聖体礼儀(ミサ)の始まりと終わりに鳴らされる。大体五分間くらい鳴っている。これがいわゆる「ニコライの鐘」だ。このほか、毎日、朝と夕方の六時と正午にも鳴らすが、こちらのほうは最近ではCDに録音されたものを使用している。
鐘を鳴らすには、両手両足を使い、踏み板や何本ものひもをあやつって、大小六個の鐘を打つ。かなりの熟練が必要な上、重労働。真冬は手が凍える大変な仕事である。
ニコライの鐘は日本寺院の鐘と違い、「カンコロン、グァーン」という独特の音色が特徴だ。
落語『野ざらし』に、ニコライの鐘を登場させたのは明治落語界の異端児初代三遊亭圓遊。この噺はもともとは、抹香臭い陰気な噺だったが、初代圓遊が鉄道馬車だの勧工場など、明治の新しい風俗を加え、爆笑落語に作り変えた。今演じられているのもこの円遊のやりかたである。初代円遊の門弟で師匠の芸風を受け継いだ二代目圓遊が、『野ざらし』の速記を残しているので紹介してみよう。
隠居が向島でシャレコウベを回向したら、陰にこもった鐘の音が鳴ったというくだりがあるが、八五郎がその言葉ををまぜっかえす場面でこんなことを言っている。
「・・・上野の鐘は金が入っているからコーンと来ましょう、目白の鐘が中央に鳴り渡って、芝の増上寺の鐘は大きいけれども海に半分音が引けるからブワーン、ニコライの鐘は性がいいんだか悪いのだか判らないけども、近所では少しやかましいと言う評判、鐘をボンボンカンカン叩いて仏になるものなれば、時計屋の近所は門並み仏になるであろう・・・」(『二代目三遊亭円遊落語集』大正元年三芳屋発行)。
ニコライの鐘の音色は、明治の東京っ子には物珍しかったようで、こんな憎まれ口を叩いているのも愉快ではないか。
 このエキゾチックな鐘の音は、流行歌にも歌われている。
 まず思い浮かぶのが、藤山一郎の「東京ラプソディ」。昭和十一年の大ヒット曲である。二番の歌詞に「ニコライの鐘」が歌われている。同名の映画の中でも、ニコライ堂近辺の風景が映し出されている。

◎「東京ラプソディ」
門田ゆたか・作詞、古賀政男・作曲
藤山一郎・歌
二、うつゝに夢見る君の 
  神田は思い出の街
  今もこの胸に この胸に
  ニコライの 鐘が鳴る
  楽し都 恋の都
  夢の楽園(パラダイス)よ 花の東京
(テイチク・50338 昭和十一年六月)
 それからもう一曲、同じ藤山一郎の『ニコライの鐘』も懐かしい歌だ。

◎『ニコライの鐘』
門田ゆたか・作詞、古関裕而・作曲
藤山一郎・歌
一、青い空さえ 小さな谷間
  日暮れはこぼれる 涙の夕陽
  姿変れど 変らぬ夢を
  今日も歌おか 都の空に
  あゝニコライの 鐘がなる
コロムビア・A1284 昭和二十六年十二月)
 古関裕而の作品には、「とんがり帽子」(川田正子・歌)や「フランチェスカの鐘」(二葉あき子・歌)や「長崎の鐘」(藤山一郎・歌)や「みをつくしの鐘」(岡本敦郎・歌)など、鐘の音を効果的に用いた曲が多い。
 二曲とも門田ゆたかの作詞。彼は明治四十年一月五日、福島市に生まれる。本名穣。早稲田大学でフランス文学を学ぶ。西條八十に師事。昭和八年から流行歌の作詞を始めている。灰田勝彦の「ジャワのマンゴ売り」などのヒットがある。抒情的な作品を数多く残している。
明治時代には、駿河台の高台から鳴り響くニコライの鐘の音は、風に乗って日比谷の方でも聞こえたそうである。本郷でも上野でも日本橋でも聞こえたことだろう。神田っ子はニコライの鐘と共に暮らしてきたのである。
そして、今も昔と変わらぬ音色で、神田の空に鳴り響いている。(岡田則夫・記)
(掲載誌・神保町のタウン誌「本の街」)