神田のうた⑩奥村五百子と『愛国婦人会音頭』

    
『愛国婦人会音頭』

千代田区役所の正面右側の植え込みの中に、小さな石碑が三つ並んで建っている。
右が「日本体育會体操学校之跡」、中央が「愛國婦人會発祥之地」、左が「九段精華学校発祥之地」の碑である。よほど注意して見ないと通り過ぎてしまうほど目立たない史跡である。
私も、今回のテーマの「愛國婦人會発祥之地」の碑の写真を撮るために探したが、もっと大きな石碑だと勝手に思い込んでいたので見過ごしてしまい、区役所の受付で教えてもらってようやくわかった次第である。
「愛国婦人会」は明治三十四年、奥村五百子(いおこ)の発案により戦死者の遺族や傷痍軍人の救護、慰問など社会事業に貢献することを目的にして創設された婦人団体である。
公爵夫人・岩倉久子を初代会長として創立。奥村五百子が中心となり、近衛篤麿とともに、一條悦子、近衛貞子、島津田鶴子、大山捨松、谷玖満子など皇族・華族など上流夫人を会員として創設された。創立趣意書は下田歌子が書いた。
奥村五百子は明治三十三年(1899年)、北清事変(義和団事件)の慰問使として派遣され、わが国の将兵が辛苦をなめる戦場の悲惨な状況を目の当たりに見てきた。その体験から、この会の設立を思い立った。彼女は全国の婦人が半襟一つを節約すれば軍人の援護は可能であると訴え、全国を全国遊説して会員拡大につとめ、各地に支部を作り、たちまち日本一の婦人団体となった。
日露戦争を契機に大飛躍を遂げ、会員の人数も四十六万人と増大した。昭和12年には会員数三百八十万人となり、本部支部が台湾・朝鮮にも設けられた。
奥村五百子(いおこ)は弘化二年(1845年)五月三日、肥前(佐賀)唐津の高徳寺の住職・奥村了寛の長女として生まれた。明治四十年(1907年)二月七日に亡くなるまで愛国婦人会のために奮闘した。
愛国婦人会は明治三十四年三月四日、仮事務所を麹町区平河町礼法講習会内に置き、同月十三日、さらに同区飯田町一丁目、日本体育会番所に移転。明治三十七年九月には日本体育会の建物を購入して、本部とした。このあたりが、現在「愛國婦人會発祥之地」の石碑が建っているところである。昔はここに奥村五百子の銅像が建っていたという。
奥村五百子の死後、佐々木信綱の作詞になる『愛国婦人会会歌』が設定された。明治四十四年十一月十三日のことだった。
歌詞が活字になることはめったにないと思うので、記録としてとりあげておこう。

◎『愛国婦人会会歌』
一、国を愛するこゝろより
かたくむすびしこのつどひ 
  とよさかのぼる日の本の
  光りをそふるますらをに
  後顧の憂ひあらせじと
  かたくむすびしこのつどひ
二、我等女はたゝかひの
  ちまたにたゝむ身にあらず
  あとにのこれる家人に
  功(いさお)もしるき廃兵に
  涙そそぎて真心を
  つくすぞ我等のつとめなる
(『愛國婦人會史』所収(三井光三郎著・大正元年・愛國婦人會史発行所発行)

昭和に入り、「大日本国防婦人会」など「愛国婦人会」と同様の趣旨で、いくつかの婦人組織が設立され、活動を開始するようになった。
昭和六年満州事変、そして昭和十二年には日中戦争が勃発する。
その頃から愛国婦人会の女性たちは、白い割烹着に「愛国婦人会」と書いたタスキ姿で、駅前や繁華な街路で「戦地の兵隊さんに千人針を送りましょう。どうか一針縫ってください」と協力をすすめた。また、戦時国債の宣伝や、戦地の兵隊さんに慰問袋を送りましょうという運動にも参加した。当時の愛国婦人会の活動振りはレコードにもなった。

◎『愛国婦人音頭』
日本愛国婦人会・作詞 近藤政二郎・作曲
浅草吉奴・歌

一、ハアー、半襟一掛 あの手軽なつとめ
  ホンニネ
  国のお役に 国のお役に 立ったらば
ハテ、ヨーイト ヨーイト ヨーイトナ
  心合わせて国のため 国のため
二、ハアー、大和乙女に あの任せてゆきゃれ
  ホンニネ
  お国盤石 お国盤石 揺るぎゃせぬ
ハテ、ヨーイト ヨーイト ヨーイトナ
  心合わせて国のため 国のため
三、ハアー、心こもった あの千人針に
  ホンニネ
  弾も消し飛ぶ 弾も消し飛ぶ 無事便り
ハテ、ヨーイト ヨーイト ヨーイトナ
  心合わせて国のため 国のため
  (テイチク5793A 昭和九年六月)

歌詞の中にある「半襟一掛」は、奥村五百子の有名なスローガンである。また、「千人針」とは、出征兵士の武運長久、安泰を祈願して贈った物で、一辺の布に千人の女性が赤い糸で一針ずつ縫って、千個の縫い玉を作る。「千人針」は流行歌にもよく歌われ、関種子に歌ったポリドールの「千人針」はちょとしたヒット曲になった。「橋のたもとに 町角に 並木の路に 停車場に千人針の 人の数 心をこめて 運ぶ針」(昭和十三年、サトウ・ハチロー作詞)は当時の情景をよくあらわしている。
昭和十七年二月二日、「愛国婦人会」は「国防婦人会」、「連合婦人会」と統合し、「大日本婦人会」が発足する。この頃になると軍部主導になり、二十歳未満の未婚者を除くすべての婦人は強制加入させられることとなり、出征兵士の送迎、貯蓄増強、廃品回収、防空演習などのために動員された。(岡田則夫・記)
(掲載誌・神保町のタウン誌「本の街」)