落語本蒐集四十年 ⑥ ◎懐かしの落語本屋 「篠原書店」の巻(続き)

◎懐かしの落語本屋 「篠原書店」の巻(続き)

 前月号で、今はなきあの懐かしい篠原書店の思い出をお話した。私は、かつての篠原書店のような味のある古本屋を訪ね歩くことを無上の楽しみにしている。見知らぬ土地に出かけ、そして、思いがけない店で思いがけない本をひょっこり見つけて買うことが大好きなのである。この気分を味わいたいがために、勤め人生活のかたわら四十年間、全国の古本屋や古道具屋を訪ね歩いてきた。いままで北海道から沖縄までのすべての都道府県を行脚、訪問した市や町は約二百五十か所になる。おじゃました店の数は、古本屋、古道具屋を合わせて三千軒位だろうか。その経験で分かったことは、実にさまざまな古本屋や道具屋が存在していることである。私好みの店も何軒か発見することができた。たとえば、金沢駅から能登半島の方向へバスで四十五分のところのK屋。この店の蔵に入れさせてもらったことがある。懐中電灯を片手に胸をわくわくさせて、古つづらの中の紙くず類を漁っていたら、古地図や大福帳や地券や絵葉書などがごちゃごちゃの中に、ステテコの円遊の速記本が混じっていた。明治二十年代の日吉堂発行の初期落語速記本だ。私は、ナウマン象の化石を発見した少年のように、しばらくの間、ぼーっと放心状態のまま、うっとりと本の表紙に見入っていた。こういうことがあるから深みにはまっていく。このわくわく感は自分で行動しなければならないかぎり味わうことはできないのである。
収集の楽しみ方は人それぞれだから、自分の性に合ったやりかたでいいのだが、私は、こういう店を探し出し、目指す本を入手するまでの過程が楽しいのである。これは古本に限ったことでなく、なにのコレクションでも同じであろう。
「岡田さん、そんな時間とお金を使って、あてもなく探し歩くのは効率が悪いですよ」と、よく忠告される。今はインターネットで素早く本が手に入る時代だ。私も利用しているが、まあ、ネットでも好きな本が入れば嬉しいし、一応収集欲も満たされるが、単にモノとカネを交換しているだけの感じだ。正直に申し上げると、面白くも何ともない。
 私の収集の楽しみ方は、欲しい本をいかに早く、安く、楽に入手したいなぞと合理的にお考えのなる人にはまったく不向きな方法なのである。のんびりと入手の過程を楽しむのだから、考えて見ればぜいたくな遊びなのである。収集の効率だけを追い求めてしまっては、まるで会社のお仕事と同じになってしまうではないか。
 このように楽しませてくれるお店は、よく探せば日本各地にまだまだ残っていると思う。日本は広い。だからヒマがあれば、今度はどこに行こうかと日本地図とにらめっこして「客を遊ばせてくれる古本屋」がありそうな候補地を探し続けているのだ。
私が理想とする条件は、まず立地だが、交通が不便な場所の店の方がいい。そのほうがもし何か見つけたとき、よくこんなところにこんな本が眠っていたなと、感激が大きいからである。はるばる訪ねてきたかいがあるというものである。次に店内の雰囲気も重要。雑然としていて、薄暗く、掃除なぞいつやったかわからないくらいで、床には紙くずが散乱し、値段の付いていない本はそこらへんに積み上げてある。しかもそれがわざとそうしているのではなく、店主の人柄から来る自然体なれば最高だ。このような非日常的な雰囲気が本を探す楽しみを与えてくれるのだ。
藝古堂がこの条件にぴったり当てはまるかどうかは、ご来店してみればおわかりになるだろう。(岡田則夫・記)

(2005年・掲載誌『藝古堂目録』)