『落語本蒐集四十年』  ②

落語本蒐集四十年②           岡田則夫
◎懐かしの落語本屋・協立書店の巻(其の一)
 浅草東映の左隣りに協立書店という新刊書店がある。昔、その二階に同名の古本屋があった。店主は戸澤郁二さんといい、古本屋になる前は染物関係の仕事をされていたという。戦後間もない頃、葛飾立石で「紅文堂」という古本屋を開業、のち新刊屋に転業した。昭和三十年頃、現在の浅草の場所に移り、一階を新刊書店にして経営を息子さんにまかせ、二階を古書部にして自分が取り仕切った。歌手の吉幾三に似た風貌で、いつもダブルの背広にネクタイのお洒落なスタイル。私が通いはじめたのは昭和四十一年頃からだが、五十半ば位のお年だったのではないか。狭い階段をのぼって店内に入ると戦前本のなんとも言えないいい香りがした。棚は四列あり、向かって一番右側の棚には演芸ものと軟派書。次の棚は芸能一般と雑誌、三番目四番目の棚は大衆文学と地誌関係。私は右側の軟派・芸能の二列専門。ありがたかったのは値段がこなれていたことである。決してベラ安ではないのだが、そうかといって買うのをあきらめるような高値はつけない実直な商売の仕方だった。だから、欲しい本は考える余地なく全部買うことができた。『カメラ社会相』や『香具師奥義書』や『現代猟奇尖端図鑑』『全国花街めぐり』など、どれも千円以下。北村兼子の本も三百円で買えた。梅原北明や佐藤紅霞や宮武外骨松崎天民や澤田順次郎や羽太鋭治らの本もよく揃っていた。当時この手の本を手がけていた書店は東京では神田の西澤書店くらいのもので、着目する本屋もなかったのである。今、大衆文学や戦前風俗やエロチシズムは趣味本屋の花形商品に出世したから、協立書店は先見の明があったと言えるだろう。
さて、お目当ての寄席ものはどうだったかというと、博文館の長編講談が常時五十冊ほどならべられているのはちょっと壮観だった。一冊二百円から六百円。一番下の段には、大川屋などの明治の菊版の本が横積みで二百冊ほど。百円から二百五十円。講談速記本に混じって円朝物などを見つけると、なんだか得をしたような気になったものだ。浪六や涙香や探偵実話や家庭小説の類などもここの中にごちゃごちゃに入っていた。雑誌も豊富で『講談雑誌』が二百円位、『文藝倶楽部』の落語講談増刊が五、六百円。『講談雑誌』のバックナンバーなどはあらかたここで揃えることができた。雑誌の山の中から『開化草紙』や『日曜日』や『柳屋』や『浮世風呂』などの薄雑誌を見つけ出した時のうれしさよ。佐藤君は『やまと新聞』の付録の束を手に入れ、声をウワずらせた。立川文庫の五十冊ぐらいの束が出たこともあった。本物の立川文庫ばかりというのは珍しかったが、二万のカネを用意することができず見送った。
 最近の藝古堂の棚は、当時の協立書店と実によく似た品揃えになってきた。特に、演芸物に関しては質量とも全盛期の協立書店を抜いたのではないかと思う。
 協立書店は、昭和五十年頃から店を閉めることが多くなり、平成元年に完全に閉店した。
 私が協立書店で入手した特筆本は正岡いるゝの『東海道宿場志ぐれ』(大正十一年・岡崎屋書店発行)である。三千五百円。躊躇することなく買い求めた。四十年経ったいまでも、背中にびりびりとエレキが走った感覚をはっきり思い出すことができる。店主は「どんな人がこの本を買うかと思っていました。わたしも初めて手がけた本だから大切にしてください」といって笑った。正岡本の中で、この本と『新堀端』、『風船紛失記』、『日日好日集』の四冊はいわゆるキキメ。正岡本完集を目指す誰しもが入手のチャンスをうかがっているものだ。私の場合は最後に『日日好日集』が残り、完全収集を達成するまで二十年近くかかった。
 とにかく、協立書店はうぶ荷が実によく入った。しかも古書展も目録もほとんどやらない完全な「店師」。だから、佐藤君や福田君などに抜け駆けされないよう頻繁に出かけたのである。ところが、ここにちょっとした「事件」が起こるのである。 (続く)      
(2005年2月記・掲載誌『藝古堂目録』)