神田のうた③ 

神田のうた③
       
◎外神田のご当地ソングを発見
 五年ほど前、世田谷のボロ市で「外神田小唄」という珍しいレコードを見つけた。
 このレコードは昭和六年一月に日本オデオンから発売されたSP盤。作詞は美家和喜、作曲は、なんと東京漫才の元祖・東喜代駒師匠である。A面は奈保里子の歌で洋楽伴奏、B面は浅草房奴の歌に三味線調の伴奏がついている。「チャンチキチ」という神田囃子の鉦の効果音なども入っていて、軽快でいい歌である。奈保里子は本格的な声学を学んだ感じの若々しいソプラノ、浅草房奴もなかなかの美声で味のある小粋な歌いっぷりだ。
 歌の文句は、神田明神講武所、青果市場、御茶の水、米問屋、神田川、御成り道、秋葉の原など「外神田」の今と昔の風物が歌いこまれている。歌詞の一部を紹介しておこう。

一、大江戸の むかし懐かし外神田
 明神様や講武所
 流れ定めて サアサ
 恋し懐かし外神田
二、上様の 祭りゆられて御成道
 恋も行き来も地下鉄の
 上野来る間に サアサ
 恋し懐かし外神田
(オデオンレコード・U2157AB)

 歌詞にでてくる明神様は言わずと知れた神田の守護神・神田明神講武所は明神下の花街のこと。現在の外神田二丁目あたりにあり、昔の町名だと神田同朋町、台所町、旅籠町にかけての一円。電車の停留所は松住町が一番近かった。昭和六年当時で芸者屋六十軒、芸妓百五十二名(内小芸妓二十二名)、幇間一名。料理屋は十軒あり、その中で有名だったのは「お山」と呼ばれた開華楼。明治十年に建てられた三階建ての層楼からは東京市街の約半分を見わたすことができ、夜景の美しさで客を呼んだという。
 現在もこの花街には芸妓の置屋もあるが、かつての華やかさは薄らいだ。秋葉原電器店街に隣接しているためか、近辺は無味乾燥な電気会社のビルに侵食され、その間に昔ながらの料亭がぽつぽつと点在しているという独特の雰囲気になっている。
 中央通りをはさんで山手線側に一万五千坪の広大な敷地の神田青果市場があった。その昔は神田川の水運を利用して河岸から荷揚げされた青物が、ここで取引されていた。今は大田市場に移転して、跡地は再開発用地となった。またこの歌には、地下鉄も歌われている。昭和二年十二月三十日に上野・浅草間が開通し、昭和五年には末広町から万世橋付近まで伸びた。開通祝いの意味もこめて歌詞に盛り込んだのだろう。人力車も走っていた時代、地下鉄はモダンな乗物で、上野・浅草がぐっと早くなった。
 ところで「外神田」という町名は、昭和三九年十二月に施行された町名改称後の新しい町名である。神田相生町神田佐久間町一丁目、神田仲町、神田旅籠町二、三丁目、神田花房町、神田花田町が外神田一丁目、神田同朋町、神田松住町、神田台所町、神田宮本町が外神田二丁目、神田旅籠町一丁目、神田金沢町、神田末広町が外神田三丁目、神田田代町、神田松富町、神田花田町と神田相生町の一部、神田練塀町、神田山本町が外神田四丁目、神田亀住町、神田栄町、神田元佐久間町が外神田五丁目、神田同朋町の一部と神田五軒町が外神田六丁目となった。
 戦前に存在しない町名「外神田」を、なぜ曲名に使用しているのかと疑問に感じるが、当時の通称としては一般的だったようである。

東喜代駒師匠が作曲
 大正の末から昭和の始めにかけて、新民謡、つまり「ご当地ソング」がどっと発表され、主だった観光地や花街には「○○音頭」とか「○○小唄」といった歌が誕生した。たとえば、昭和六年当時、東京市内の花街は二十八か所あり、約八千の芸妓が座敷をつとめていたが、こういった花柳界のほとんどのところでレコードを出している。たとえば、向島旧検番芸妓連の「向島小唄」や「隅田音頭」、浅草芸妓連の「浅草新調(浅草名所)」、新橋芸妓連中(向「新橋夜曲」などがある。このほかにも柳橋、赤坂、神楽坂や市外の蒲田や五反田、さらには郡部の八王子や調布などの花街の盤も多い。なお、神田講武所のものでは、かる子という芸妓が昭和四年、ニッポノホンに「かっぽれ」を、コロムビアに「茄子と南瓜・猫じゃ猫じゃ」「行きゃ出て行く・ぎっちょんちょん」を吹き込んでいる。花街は芸能の発信地でもあったのである。
 この「外神田小唄」もそうした「花柳界の歌ブーム」に乗った一曲として世に出たものだろう。でも、喜代駒師匠が作曲なさったとはちょっと驚きである。
 四十年ほど前、私は外神田の喜代駒師匠宅を訪問したことがある。その時「外神田小唄」が話題にならなかったのは、今思うと残念だが、昔の東京漫才の思い出話はいろいろお聞きすることができた。
 師匠がこの歌を作曲した昭和五年頃は人気絶頂期。林家染団治との共著で『尖端エロ萬歳』(日吉堂本店、昭和五年十一月二十八日発行)を出すほどの売れっ子だった。
 東喜代駒は明治三十二年、群馬県館林に生まれる。東京下谷で米屋をしていたが、根っからの芸好きで、天狗連セミプロ)に入る。関東大震災後、浅草御国座に上方から安来節の一座来た。その中に萬歳が混じっていて、「これは奇抜だ。ようし俺も工夫してやってみよう」と思い立つ。大正十三年頃「ハイクラス萬歳」の看板でデビューする。東喜代駒は東京の芸人で最初に漫才を始めた芸人として芸能史に名前が残ったのである。漫才レコードを吹き込んだのも東京では師匠が最初である。大正十四年から昭和十年頃にかけて、太刀村一夫、東喜代志、東千世子、東駒千代のコンビで二十五枚ほど吹き込んでいる。昭和五十二年十月十日、七十八才で亡くなった。晩年は一人高座で、浪花節やバイオリン演歌をネタにした漫談で人気があり、テレビにもよくでていたのでご記憶の方も多いだろう。
 それにしても、なぜ喜代駒師匠師がこのレコードに関係していたのだろうか。謎の多いレコードだ。私の想像するところ、このレコードは神田青果市場の関係者あたりから持ち上がった企画ではないかと思う。師匠は青果市場の幹部に後援者が多かったので、その関係で彼に白羽の矢があてられたではなかろうか。師匠は芸の幅が広く、バイオリン演歌を独習でマスターするくらいだから、音楽のカンもあり、「じゃあ、ひとつやってみましょうか」と作曲を引き受ける気になったのかもしれない。
 できた当時はかなり歌われたと思うが、七十五年を経た現在、この歌を記憶している人は私の知人には一人もいなかった。喜代駒師匠の門弟の源氏太郎師匠にもお尋ねしてみたが「おやじが作曲を?。聞いたことがないなあ。初耳ですよ」と、驚かれた様子だった。 「外神田小唄」は遠い遠い昔の歌となってしまったのだろうか。
 この歌のルーツをもっと探っていくと、きっと何か神田の町の新しい発見があるのではないかと思う。岡田則夫
(掲載誌・神保町のタウン誌「本の街」)