神田の歌⑬ 「本郷弓町縁日懐古」(1)


子ども時代の思い出で、なんといっても懐かしいのは、縁日である。
今でも巣鴨地蔵や深川不動など大きな縁日は続いているが、昭和三十年の半ばごろまでは、何々神社や何々地蔵といった所ではたいてい縁日が立っていたものである。
私が生まれた本郷弓町(現本郷二丁目)にも、三河稲荷神社の縁日があった。この神社は稲荷信仰が江戸に広まった基となったところといわれる古社である。宮司さんの話では、来年、御遷座四百年を迎えるそうだ。三河稲荷神社の縁日は戦前から「三九(さんく)さん」の愛称で呼ばれ、三と九の付く日に行われていた。
昭和二十五年当時、縁日の夜店は壱岐坂の中腹辺りから、大横丁通り商店街を中心に、本郷通りにぶつかる角あたりまでぎっしりでた。
後楽園方面から本郷に登る坂が東洋学園大学のところで左右に分かれるが、左の坂が壱岐坂である。右の広い方の坂は関東大震災後にできた新道で「新壱岐坂」と呼び、こちらの方には縁日は出なかった。出店数は多いときで五十店ほど。
私の祖父は、大横町の中ほどの弓町二丁目の角でロンドンテーラーという洋服屋を営んでいていた。ちょうど露店の並びの真ん中である。祖父の店の裏の細い路地を入り、右に曲がった所に私の家があった。
私は縁日の日になると明るい内からそわそわしたものだ。いずこからとなく、リヤカーやテコ車を引っ張った露店商人の姿が現れる黄昏時になると、大横町の通りを行ったりきたりして、露店のおじさんたちの準備の様子からじっくりと見学するのである。この時から縁日の遊びが始まる。
縁日は瀬戸物屋や反物屋やインク消しなどのタンカ売(バイ)の面白い口上を聞く楽しみもあったし、針金細工や新粉細工などの技を眺めるのも興味深かった。また、子どもたちにとって公然と夜遊びができる縁日の日は、ちょっぴり冒険心を満足させることもできたのである。
空が暗くなると、夕食を済ませた近所の人たちや、銭湯帰りの人々で、縁日の通りは賑やかになる。なお、ここの縁日の照明は電気で、カーバイトのアセチリンガスは、使っていなかった。
さて、親からもらう小遣は五円か十円で、夏休みは五十円。二宮尊徳の一円札や国会議事堂の十円札、それに板垣退助の五十銭札が流通していた時代である。まだアルミの一円玉はなく、十円硬貨が出始めた頃だ。あの頃のお札は今みたくピンとしてなく、どれもよれよれで油じみていて、それをポケットに大切にしまって出かけるのである。
当時子どもに人気があったのは、何といっても食べ物。覚えているものを全部挙げると、アンズ飴、べっ甲あめ、綿飴、カルメ焼、リンゴ飴、みかん飴、それから、のしイカの実演販売やどんどん焼きや、新粉細工やあめ細工もあった。ウエハースやカステラの裁ちくずも売っていた。珍しいものでは、ハスの実なんてものもあった。これは皮をむいて生で食うと南京豆と似た味がする。年上の悪童連は不忍池からクスネテきて売っているんじゃないかと、憎まれ口を叩いていたもんだ。なお現在人気のあるタコ焼きやお好み焼きやソース焼きそばは、当時、東京の縁日には見かけなかったものである。あれは近年、関西から移入されたのもので、東京の縁日では新しい品目だろう。
 大道の商売は、何か面白いものはないかと、そぞろ歩きしている客を立ち止まらせ、商品に興味をひきつけさせ、そうして買ってもらわなくてはならない。興味がなければぷいと通り過ぎて行ってしまう浮気な客相手の難しい商売とされる。
 その点、むかしの縁日の商人はいかにも年期が入っていた。芸があった。どうしたら客が寄ってくるか、心理をつかむことを心得ていたような気がする。
たとえば、カルメ焼なども作り置きは一切せず、全部一つずつその場で作って売るのだ。いわゆる実演販売というやつである。
子どもたちはその間、自分の番がくるまで口にツバキをためてじっと待っているのである。
 どんな風にしてやっていたのか、おぼろげな記憶をたどってご説明してみよう。
カルメ焼屋のおじさんは、地面にゴザを敷き、その上に座って商売する。道具は小さなコンロと玉杓子のような形のカルメ焼の小鍋と、それに攪拌する乳棒のような太い棒である。この鍋は赤銅でできていて、使い込まれて周りは黒光りしていた。
燃料はプロパンガスなどない時代だから、木炭か豆炭を使っていたのだと思う。注文があるといよいよ作り始める。カルメ焼の鍋を火にかけ、その中にニュームの小薬缶から水をちょっと入れ、次にザラメを匙ですくって入れる。ザラメが溶けて煮詰まってくると、泡が細かくなってくる。あたりには、砂糖が焦げる甘い匂いが漂う。このあと頃合を見計らって、白い粉を入れて、棒で攪拌すると、ぷうっとふくれたカルメ焼きができるのだが、その白い粉を入れる瞬間を見逃すまいと子どもたちはしゃがみ込んでじっとおじさんの手元を注目するのである。しかしおじさんは、じらすかのように、「まーだ、まだまだ」と独特の歌い調子の呪文を唱えながら、なかなか魔法の白い粉を入れようとしないのである。この辺の呼吸がなんともみごとなものだった。そして、最後の見せ場である、カルメ焼きがふくれる場面となる。おじさんは白い粉(重曹)を、なぜか味の素のカンに入れていた。おもむろに白い粉を耳掻きのような匙で鍋の中入れ、棒をぐるぐるっと攪拌して、その棒を上に差し上げると、どろどろの液体は泡を立ててむくむくと膨張し、カルメ焼きが出来上がる。火から下ろして、カルメ鍋の底を濡れ布巾に当てて、じゅっと音させ、そして、すばやく鍋を裏返して軽くぽんと叩くとできあがる。そして、お金と引き換えに新聞の切れっ端に挟んで渡してくれるのだ。このおじさんは、縁日でカルメ焼を何年作り続けていたのだろうか。熟達した一連の流れは少しも無駄がなく、正に職人芸であった。子どもたちは、このおじさんを畏敬の眼差しで見つめていたのだった。ようやく自分のカルメ焼を手にした時の喜びよ。いま思うと、そこまでに至る、その過程が楽しかったのである。現在のように、袋に入ったお菓子をお金と引き換えにポイと渡されるだけじゃ面白くも何ともないではないか。
できたてのカルメ焼は温かく、齧るとほろっと砕け、口の中いっぱいに甘味が広がった。
このように、昔の縁日は、カルメ焼屋一つ例にとっても、子どもたちの味覚、嗅覚、視覚、聴覚を快く刺激してくれたのである。
カルメ焼屋のおじさんは、子どもたちに向かって「この白い粉が何なのか、次の縁日で教えてあげるよ」と宣言するのだが、次行っても教えてはくれず、やはり「次の縁日に教えてあげる」と、いつも同じことを繰り返して言うのだった。(岡田則夫・記)(続く)


(掲載誌・神保町のタウン誌「本の街」)