神田のうた⑭「本郷弓町縁日懐古」(2)

神田のうた⑭    「縁日懐古」(2)
◎「綿あめ」と「どんどん焼き
 縁日の食べ物で、今も子どもたちに人気があるのは「綿あめ(綿菓子)」だろう。あの、綿雲のようなふわっとした形、そして口に入れた時、すっと溶ける独特の感触。こんな不思議なお菓子は珍しい。
 それに、菓子屋では売っていない縁日の専売物だということも人気の理由だろう。
 私の子ども時代は、この「綿あめ」のことを、年寄りは「電気あめ」と呼んでいた。明治、大正時代、目新しいものや珍奇なものの代名詞として「電気」の文字を付けるのが流行った。「電気館」という名前の浅草の映画館もあった。「電気あめ」もその時代の名残りだろう。
 添田知道さんの本に、明治の終わり頃、田口運蔵という人がロシアから持ち帰ったのを、石島呑象というテキヤが縁日で売ったところ、大当たりしたとでている。始めは「カットン・キャンディ」と呼んでいたそうだ。カットンはすなわち綿のコットン、英語の流用だが、この命名も、ちょっと洒落ていていい。
 子どもにとって本当に不思議な食べ物だが、なぜあのようなふわふわのあめになるのか、その原理は案外シンプルである。
 砂糖を熱してあめ状に溶けた液を、回転釜の内部の小さな穴から外に押し出すと、外気で冷やされて固まり、あのような綿状のあめができる。熱源は、たしか、水道工事で鉛管を溶かすとき使う、取っ手の付いたバーナーのようなものを用いていたような気がする。
 今はすべて電気で、中央の回転釜を回すのにも電動モーターを使っているが、私の子どもの頃はみんな足踏み式だった。足踏みミシンと同じ原理だが、両足ではなく、片足で踏む。踏みながら、ザラメを真ん中の穴に入れ、出てきた綿あめを体を揺さぶりながら調子を取り、割り箸でふんわりとからめ取る。いまは機械任せだから、あのリズムカルな手足の動きを見ることができない。ぼーっとつっ立ったままで、なんと味気のないことよ。漫談の牧野周一さんの世相ネタで、与太者が半身になって右膝を小刻みに曲げたり伸ばしたりしてすごむギャグで、「俺はもと、綿あめ売ってたんだ」というのがあったが、中年以上の方なら懐かしく思い出されるだろう。
 さて、本郷弓町の三河神社の縁日に出ていた綿あめ屋は、亡くなった百面相の波多野栄一さんに似た風貌の爺さんで、鳥打帽をかぶり、ボタンの付いたメリヤスのシャツを着ていた。
 綿あめの材料はザラメ。赤・白の二種あり、赤いザラメは食紅で濃く着色してあったが、仕上がりは桜の花びらのようなきれいな桃色になる。こちらはもっぱら女の子向けである。味はどちらも同じ。昨今のように、グレープフルーツ味なぞというゲテな香料入りのものはなかった。ザラメをすくって回転釜の真ん中の穴に入れる道具は、竹輪を斜めに切ったような形で、中が空洞になっている筒型の真鍮の匙である。
 この綿あめ屋の爺さんは、ザラメを穴の中に入れるとき、必ず、その筒型の匙の側面を、回転している穴の内側に当てるのである。そうすると、「シャーッ、シャーーーーッ」と、金属と金属が触れ合う何ともいえない音が周囲に鳴り響くのである。それは、ザラメをこんなに一杯入れていますよ、という証明の音でもあり、また、これから綿あめが吹き出てくる合図の信号でもあった。綿あめ機のタライに付いたあめのカスは、餡ヘラのようなものでこそぎ取り、再び穴の中にさっと入れていた。砂糖が貴重だった時代が偲ばれる。
 綿あめの甘さは純粋の砂糖の甘さだった。昭和二十年代、東京下町の子どもたちの食べる甘味といえば、サッカリンブドウ糖や水あめが素材の悪甘い菓子ばかりだったから、砂糖の結晶であるザラメから作る綿あめの甘さは、子どもの舌の味蕾を快く刺激したのである。
 綿あめは、空気に触れるとしだいにしぼんでしまう。ゆっくり食べていると、割り箸にあめ状になってくっついてしまうこともある。いつまでも割り箸をしゃぶっていると、必ず母親から小言を食ったものだ。
「おまえ、割り箸をそう舐めるんじゃないよ。この割り箸は、どこから持ってきたのかわかりゃしないよ。おしたじのシミが付いているのもあるんだから。疫痢のバイキンでも付いていたらどうするの」。
今はそんなことはないが、戦後の復興時代は使用済の割り箸の再利用をすることは、あり得たことかもしれない。そういえば、蕎麦屋の店先に、洗った割り箸を干しているのをよく見かけたものだ。
 不思議なことに、べっこうあめの割り箸をしゃぶっても、何も言われなかった。煮えたぎるあめを流し込むのだから、親たちは割り箸も消毒されていると思ったのだろう。当時は伝染病が流行した。私もしょう紅熱にかかって駒込病院に隔離入院したこともあったので、親も心配したのだろう。
 それから、親から食べるなといわれていたものに、「どんどん焼き」がある。水道もない所で作るのだから、不衛生でだめだというのである。
 「どんどん焼き」は東京に古くからある庶民のおやつで、まあ、お好み焼きのようなものである。「ドンドン」と太鼓を打ち鳴らしながら売り歩いたところからこの名が付いた。鉄板の上に水溶きメリケン粉を伸ばして薄く焼き、ネギや揚げ玉などの具を挟み、ソースを塗って食う。上方風お好み焼きのように厚ぼったくなく、大きさも餃子の皮をひとまわり大きくした程度の大きさである。縁日では目の前でおじさんが焼いてくれる。
 私は、根が食いしん坊だから食べたくて食べたくてしようがない。ある日、とうとう我慢しきれず、親に内緒でひき肉入りのどんどん焼を注文したのである。いつも友だちがうまそうに食べているやつである。おやじは、竹の皮包みから、ヘラで小さな梅干位の大きさの赤黒いひき肉を取り分けると、水溶きメリケン粉の上にのせて焼き始めた。ジュー、ジュー・・・。油とソースの焦げるいい匂い。
 どんどん焼は、焼けたら必ず二つ折りにして、新聞の切れ端に挟んで渡してくれる。新聞の印刷インキの匂いと、ソースの香ばしい香りが入り混じって、これがまたたまらない。ソースは、どろどろのトンカツソースでなく、胡椒のきいたウスターソースだ。
 誰かに見つからないように、薄暗い路地に入って、がぶりとほうばった。ところが、ところがである。もぐもぐと二噛みほどして驚いた。臭いのである。口の中一杯に広がる、むっとするようなケダモノの臭い・・・。動物園の狸のオリの前に漂っているような匂いなのだ。
 私はどうしても飲み込むことができず、吐き出してしまったのである。どんどん焼きで豪遊の夢は、はかなく消えた。そうして、しょんぼりとして家に帰ったのである。
 あのひき肉はいったい何の肉だったのだろうか。豚肉でも牛肉でもなく、といって鶏肉でもない肉。
 むかしの縁日には、こういう、ちょっと怪しげで、うさんくさい雰囲気があった。これがまた魅力だったのである。(岡田則夫

(掲載誌・神保町のタウン誌「本の街」)