神田のうた⑰ 「本郷弓町の駄菓子屋懐古」(1)寒天棒

「駄菓子屋の思い出」(1)寒天棒
 私が子どもの頃には、どこの町内にも駄菓子屋があった。お客は幼児から小学生くらいまでがお得意さんで、中学に入るとあまり行かなくなる。店番をしているのはたいていお婆さん。四五人も入るといっぱいになる狭い店内に、菓子や玩具類がごちゃごちゃと並んでいる。商品は子ども相手の単価の安いものばかりだが、毎日日銭が入る手がたい商売だったので、小資本でできる年寄りの隠居仕事としてはじめる者が多かったようだ。
 本郷弓町二丁目角の祖父の店・ロンドンテーラーの向かい側にあった駄菓子屋に毎日のように通った。私はこの駄菓子屋に幼稚園にあがる前から入り浸っていた。自分のお金で買物をする楽しみを初めて体験したのもこの駄菓子屋であった。
 駄菓子屋は子どもだけの社交場。父兄同伴でやってくるヤツなんて一人もいなかった。常連の中には腕白小僧や、オチャッピーな未来の巴御前嬢も混じっている。年期の入ったここの婆さんは、叱ったり、なだめたり、喧嘩の仲裁をしたり、客さばきも実に手なれたものだった。
 昭和二十八、九年当時、私が駄菓子屋で一回に使う小遣いは五円。十円だと殿様気分だ。
 紙をなめるくじは一回一円。これは白い付箋を束ねたような形で、当りそうなのを選んで、抜き取りぺろりと舌で舐めると、当たりは「当」か「花丸の印」、ハズレは「スカ」の文字が浮き上がる。当ることはめったになく、たいていは「スカ」ばかり。店先は、ハズレくじが散らばっていた。いま思うと、あの薄暗い雰囲気がたまらなく懐かしい。ギンギラ照明のコンビニじゃあの雰囲気は出すことはできませんね。
 駄菓子屋で売っていたものは、各種アメ、あんこ玉、ふ菓子、ニッキ棒、貝ニッキ、イカなど菓子類、ラムネやニッキ水などの飲み物、めんこやブロマイド、宝袋など玩具類。
 駄菓子屋はその昔は「一文菓子屋」とか「文久店」と言われていた。「文久店」は江戸時代の四文銅貨、文久永宝からきたもの。昔の子どもたちも小銭を握りしめて通ったのだろう。
 東京の駄菓子問屋は、現在は日暮里が知られているが、明治時代は神田が本拠地だった。通新石町(旧神田多町、現・内神田三丁目)の青物市場の一角にあった通称「一文銭市場」がそれで、神田区内はもちろん、下谷、浅草、本郷、四谷、麹町、あるいは、遠く南葛飾、北豊島、千住、板橋、目黒、渋谷からも買出しに来ていたという。ここには豆鉄砲、笛、喇叭、花火、福袋、鉛面子、ほうずきなどの玩具から、落花生、一文菓子、ニッキ、砂糖水、焼蜆、杏、巻鮨などの多種多様の商品を扱う卸店が並んでいた。買出し人は何軒もの店を歩いて、少しずつこまごまと買い歩き、その仕入れ高を合わせても、合計二十五銭を上回る者は少なかったという。零細な商売だったのである。支払いも穴明き銭をサシにしたものも通用し、「一文銭市場」の名前の由来となった。神田と駄菓子の縁は深い。

◎懐かしの「寒天棒」
 駄菓子屋のお菓子は、甘いものだけでなく、酸っぱいものもあれば辛いものもあり、バラエティは豊富。また、玩具と組み合わせたもの、見た目の変ったもの、食べ方の面白いもの、くじと組み合わせたものなど、子どもの心理を実によくとらえている。
 現在まったく姿を消した幻の駄菓子に「寒天棒」がある。
 「寒天棒」は直径一センチ、長さ二十センチくらいの透明なガラス管に甘い寒天液を流し込み、固めたもの。中高年の方なら、きっと「ああ、あれか!」と懐かしく思い出されることだろう。寒天と言っても今流行りの健康食品ではない。これは昔の駄菓子屋の専売もので、普通の菓子屋には売っておらず、縁日でも見かけなかった。東京だけでなく、日本どこの駄菓子屋でも置いてあった人気商品だったらしい。江戸時代は、ガラス管ではなく、節を抜いた細竹を用いていたという。
 一体いつ頃、誰が、どこで作り始めたのだろうか。傑作ではなかろうか。しかも、駄菓子としては珍しい「生菓子」である。
 寒天は赤や緑に着色され、サッカリンかなんかでうっすら甘味が付いていた。食べ方は簡単。ガラス管を軽く吸うと、中の寒天が口の中ににょろにょろと飛び込んでくる。寒天のかたさは密豆の寒天のように弾力性のある固めのものではなく、固まるか固まらないかギリギリまで寒天の濃度を薄めているから、軟らかめであった。また、香料は一切入っておらず、さっぱりしておいしかった。
 一口吸ってはもぐもぐ、また一口吸って今度はつるんと飲み込む。この時、片方の底になる部分は、指で押さえておかないと、ストンと地面に落としそうになるので注意が肝心だ。食べ方の要領は、常連の兄さんたちが教えてくれた。こういうちょっとした「コツ」が年長者から年下に受け継がれていくのも、駄菓子屋が社交場たるゆえんだった。
 ガラス管のはしを口に当てたときのひんやりとしたガラス管の感触、ずっしりとした手取りの重さ。これはガラスだからよいのであって、今、プラスチックの管を使って作っても間が抜けたものになるだろう。
 食べ終えたガラス管は、子どもにとって魅力的な遊び道具となるものだったが、これは店に返すことになっていた。ラムネびんと同じように洗って何度も使うのである。このガラス管はたぶん、風鈴作りの職人あたりが片手間に作っていたのかもしれない。口に当る所は風鈴のヘリのように滑らかに処理してあった。
 ご承知のように、寒天は細菌の培養に使われるぐらいで、バイキンが繁殖しやすい食品である。寒天棒は木製の箱に入れて売っていた。ガラス管の両端の部分の寒天はむき出しになっていたから、あまり衛生的とはいえなかった。子どもたちはそんなこと頓着しないから、平気に食べていたものである。それでも、おなかが痛くなったという話は聞いたことがなかった。
 絶滅した懐かしい駄菓子はまだまだある。次号は「セロハンニッキ」のお話をしたい。(岡田則夫・記)

(掲載誌・神保町のタウン誌「本の街」)