神田のうた⑫『復興神田音頭』 

東京が本格的な空襲を受けるようになるのは、昭和十九年十一月二十四日からである。占領されたマリアナ諸島の基地から飛んできたB29重爆撃機による爆撃であった。この日から、昭和二十年八月十五日の終戦までの九か月の間、空襲は休みなく続けられたのである。
神田方面の初空襲は、昭和十九年十一月二十九日夜半から三十日にかけてであった。B29二十七機が来襲、神田と本所、城東方面が被害に遭った。焼失区域は小川町三丁目、錦町二,三丁目、鎌倉町、美土代町、司町、多町1丁目で、約1千戸が罹災した。ついで十二月三十一日の空襲でも末広町、五軒町、栄町の百五十戸が家を失った。
神田区の被害がもっとも大きかったのは、昭和二十年二月二十五日午後二時五十八分からの、B29二百三十一機による大空襲である。この日は早朝から雪で、午後には二、三十センチの積雪があり、消火は困難を極めた。都内で二万戸が焼け、百九十五人が無念の死をとげた。特に被害が大きかったのが神田区で、戦災家屋九千二百戸に及んだ。須田町、神保町など住宅密集地の被害が甚大だった。
そして、三月十日の東京大空襲を迎える。
九日の昼過ぎから吹き始めていた強風がさらに激しくなった九日夜十時半頃、空襲警報が鳴り、B29の姿が房総半島上空に現れたが、旋回しただけで姿を消す。しかし、日付が十日にかわった零時八分、B29三百二十五機が超低空で東京下町の夜を襲った。そして、千六百六十五トンもの焼夷弾を投下したのである。悪魔が吹く笛のような“ヒューーッ”と無気味な音を発して雨アラレと落下してくる焼夷弾。折からの強風にあおられ、四方八方またたく間に紅蓮の炎に包まれた。猛火は巨大な火の玉となり、あらゆる物を焼き尽くした。お年寄りも母も子も火の海の中を逃げまどった。そして、わずか二時間半で東京東部一帯は廃墟と化したのである。
この無差別爆撃により百万人が家を失い、死者は十万人にも達した。焼失地区は全東京三十五区の内、三分の二にあたる二十六区が大きな被害を受けた。特に、本所、深川、城東、浅草は壊滅に近く、続いて下谷日本橋向島の各区も大きな被害を受けた。
神田区の被害は焼失戸数五千十、焼失建物坪数九万五千百五十坪、死者二百三人、負傷者百六十三人だった。
三月十日以降も空襲は続き、四月十三日夜半から十四日早晩にかけての爆撃で、神保町一丁目、猿楽町、三崎町一、二丁目、小川町、淡路町など三千三百戸が被災した。また、東京空襲全体で神田区の人的被害は、死者三百八十三人、重傷四百十人、軽傷二千六百三十六人、罹災者は六万七百四十三人だった。(『東京都戦災史』)。
このような激しい空襲により、神田区は三分の二が焼失した。わずか須田町や多町の辺りや古本屋街のある神保町界隈の一部は奇跡的に焼失をまぬがれた。現在も戦災を受けなかった地区は銅板葺きの店舗や黒っぽい味のある民家が点在していて、実にいい雰囲気である。最近では無味乾燥な近代的ビルやマンションに侵食されつつあるが、戦前のなごりを残す文化財級の建物はまだまだ健在ある。

◎神田復興の歌声
昭和二十年八月十五日、日本軍国主義はついに降伏、ようやく長い戦争が終わった。この戦争で、神田区の住民の数は激減した。昭和十五年の国勢調査で十二万八千百七十八人の区民の数が昭和二十年六月の東京都の調査では二万千五百六人に減っている。
空襲におびえることもなくなり、平和を取り戻した神田の人々は高らかに槌音を上げ、復興に向けて、着実に進んで行った。昭和二十一年九月、神田区復興委員会主催で「神田復興祭」が盛大に行われた。
木遣り、手古舞、稚児行列、そして神輿と各町内思い思いの趣向で、神田っ子の意気はまだ衰えていないことを天下に示した。神田の町に笑い声や歓声が戻ってきた。十四日には、十一時から祭りの様子を神田須田町からラジオ中継した。
『神田復興祭記念写真帳』(昭和二十九年九月、愛誠堂写真部発行)も発行された。祭りの様子の生写真三十四枚をアルバムに貼ったもので、神田区長であり神田復興委員長でもあった村瀬清氏の序文には「我等は心機一転、昨日の悪夢を今日の良夢と化すべく、その転換点として挙行された神田復興祭を後世に残すために、この写真帳を作成した」と記されている。写真の中には、見物人に混じってアメリカ兵の姿が写っているものもあり、占領下の東京神田の雰囲気をよく伝えている。
また、この「神田復興祭」のために制作されたと思われるレコードが残っているので紹介しておこう。

◎『復興神田音頭』
呉文録・作詞、山本栄・作曲
霧島昇、松原操・歌

一、ちょいと神田に 神田にちょいと上がる
チョイトチョイト(囃子言葉・以下同)
上がる槌音 復興の先ぶれよ
ヨイヤサノサ(囃子言葉)
神田よいとこ 神田よいとこ
神田は日追いて そらきた ほらきた
ヨーイヨイ
二、ちょいと神田に 神田にちょいと日差す
チョイトチョイト
広く店建ち たちまち繁盛よ
ヨイヤサノサ
神田よいとこ 神田よいとこ
神田は 日追いて そらきた ほらきた
ヨーイヨイ
三、ちょいと神田に 神田にちょいと生まれ
チョイトチョイト
生まれ育ちは 明神さんの氏子よ
ヨイヤサノサ
神田よいとこ 神田よいとこ
神田は日追いて そらきた ほらきた
ヨーイヨイ
四、ちょいと神田に 神田にちょいとイナセ
チョイトチョイト
イナセ やっちゃば 横丁に鉢巻よ
ヨイヤサノサ
神田よいとこ 神田よいとこ
神田は 日追いて そらきた ほらきた
ヨーイヨイ
コロムビア・PR46A・昭和21年9月頃)

このレコードは素材の悪い終戦直後の盤だが、録音はよく入っている。
リズムは復興の意気込みを感じさせるような浮き浮きする音頭調だ。歌詞も洒落ていて、なかなかいい曲である。なお、B面も同名の音頭だが、テンポがやや早間になる。歌手はA面と同じ霧島昇・松原操のおしどり夫婦コンビで、息もぴったり。神田川駿河台、ニコライ堂、書生さん、古本屋が歌い込まれ、神田の名物づくしになっている。この歌、いつごろまで歌われていたのだろうか。知り合いの神田住人に聞いて見たが、「そういえば、そんな歌あったような・・・」という返事が多かった。戦後六十年。遠い遠い昔の歌になってしまったのだろうか。『復興神田音頭』の思い出を、どなたかにお聞きしたいと思う。(岡田則夫・記)
(掲載誌・神保町のタウン誌「本の街」)