落語本蒐集四十年 ⑦ ◎懐かしの落語本屋 「谷中・鶉屋書店」の巻

    
 鶉屋書店を教えてくれたのは、日大文理学部落語研究会の仲間で、地元日暮里生まれの福田喜久男君である。昭和四十一年春、例会の帰りに一緒に行ったのが最初だった。日暮里駅の谷中方面の出口を出ると、御殿坂というなだらかな坂になっている。この坂を登りきり左に曲がったところに、せんべい屋だの飲み屋がごちゃごちゃと並ぶ初音小路という一角があり、その右側の角に鶉屋書店があった。四,五坪のこぢんまりした店だった。店主は飯田淳次さんといい、おっとりとした文学青年といった雰囲気の方だった。私がお会いしたときはまだ四十才代だったと思う。飯田さんは若いころから無類の本好きで、兵隊時代読む本がなくなると、辞書を読んでいたとよく話されていた。
 近所には古今亭志ん生三遊亭小圓朝師匠のお宅もあり、落語家や関係者がよく来店していたようだ。「きのうは江國滋さんがお見えになりました」などと、うれしそうに話していた飯田さんの顔を懐かしく思い出す。
 店は小さいが本は粒より。しかも美本ばかり。詩集、文学書が中心で、寄席関係は二棚ほど。正岡容の『影絵は踊る』の箱付美本を初めて見たのも鶉屋だった。売価は七千円であった。この本があったのは改築する前のことで、初音小路側の入り口から入って、右側の上から二段目あたりの棚にあった。欲しかったが、スネかじりの身では不相応だとあきらめた。行くたびごとにながめていたが、いつの間にか売れてしまった。
黒っぽい本にはみなパラピン紙がかかっていた。昨今は透明ビニールに入れるのが流行っているが、昔は半透明のパラピン紙。このパラピン紙は普通の文房具屋で売っていない種類で、ロウ紙のような斤量のある厚手のものだった。包み方も独特で、見返し部分一杯に広がるように、パラピン紙をたっぷり使うやりかただった。仕上がりはフランス装のようになる。特に四隅は奉書包みのようにきちっと折り曲げてあった。私も真似をして一生懸命稽古したものである。
 鶉屋は本好きの間では知られた店だったが、明治百年記念の白木屋の古書展で、戦前落語本を一挙に百点も出品して話題となり、全国的に名が知れ渡った。
 私が鶉屋で最初に買った本は春風亭柳橋の『高座五十年』(昭和三十三年、演劇出版社発行)。今はよく見かける本だが、その当時は入手が難しく、古書価も千五百円位した。飯田さんは、二階から本を持って降りてきて、「学生さんだから安いほうがいいでしょ。これ、箱なしだけど我慢してね」と、五百円で売ってくれたのである。そういう優しい心遣いをする人でもあった。それから、こんなこともあった。昭和四十三年頃だったろうか、牛込柳町の原町文庫に明治大正の落語速記本が十五冊ほどまとめて出たことがあった。値段は一冊二千五百円くらい。学生の身分では手が出ず、見送った。当時でもこれだけまとまって出ることは珍しい。このはなしを飯田さんにすると、顔色がさっと変った。「岡田さん、今すぐ行きましょう、今すぐ!」。私は、その気迫に圧倒されてしまった。飯田さんがそのころ乗っていたのはスバル。カブト虫のような形をした小型車だ。助手席に私を乗せて、谷中から根津、本郷、小石川、江戸川橋と、黄昏の東京の町を猛スピードで走り、牛込の原町文庫に到着したときには、日はとっぷりと暮れていた。幸いに速記本は売れずに並んでいた。飯田さんは値段も見ず、全部売って欲しいといった。しかし、原町文庫の店主は売り先のアテがあるとかで、即答を避けたのである。私はこのあとどんな交渉に入るのかと見守っていたが、飯田さんは深追いしなかった。あっさり「それじゃどうも」と言って、帰り際、棚をぱあっと見て、池田蘭子の『女紋』を一冊抜いて代金二百五十円を払うと、さっと引き揚げたのである。帰り道、「岡田君ありがとう。これで大丈夫。あれは全部僕の所に来るよ」と、落ち着いた口調で、しかも自信ありげにいった。しばらくして鶉屋に行くと、あの原町文庫の速記本は、パラピンできれいにお化粧して、帳場の横にずらりと並んでいた。(岡田則夫・記)

(2005年・掲載誌『藝古堂目録』)