神田のうた④ ◎唱歌「廣瀬中佐」

唱歌「廣瀬中佐」
 神田須田町の交叉点近くにあった廣瀬中佐と杉野兵曹長銅像は、戦前まで西郷隆盛忠犬ハチ公銅像のように誰でも知っている有名なものだった。東京名所の絵葉書にとりあげられ、修学旅行の見学場所でもあった。銅像の場所は、ちょうど現在の交通博物館のたもとで、その昔は万世橋駅だったところである。
 廣瀬中佐は日露戦争で名誉の戦死を遂げた日本初の「軍神」といわれる人である。「軍神」という言葉は、今は死語に近いが、軍国主義時代の日本で盛んに使われ、「戦場で武勲をたてて戦死し、軍人の模範となった将兵」に対する尊称である。軍神乃木大将、軍神東郷元帥、軍神肉弾三勇士などと用いられた。
 明治三十七年、日露戦争開戦。ロシア太平洋艦隊は勢力を温存するため、旅順港の奥深く停泊したままで、港の外に出てこようとしなかった。日本は西のバルチック艦隊が極東に回り、この太平洋艦隊と合流すると戦力が約二倍になるため、早く太平洋艦隊を撃破しなければならなかった。そこで、考え出されたのが、旅順港の入り口に廃船を沈め、出てこられなくさせようという「閉塞作戦」。この作戦は明治三十七年二月に第一回目が実行されたが成功せず、三月二十七日、廣瀬中佐(当時少佐)が指揮する福井丸による第二回閉塞作戦が行われた。予定地点に向かって航行していた福井丸は、敵の魚雷を受けた。廣瀬少佐は、総員退避を命じ、点呼を取ったところ、杉野孫七兵曹長(当時上等兵曹)の姿が見えないことに気づき、部下にボートに乗り移るように命ずる一方、「杉野!」「杉野!」と名を呼びながら船内を探したが、姿を発見することができなかった。廣瀬は無念の思いで捜索を断念、ボートに乗り移った時、敵の弾丸を受け、もんどりうって海中に沈んだ。時に廣瀬少佐三十七歳、杉野上等兵曹三十八歳。
廣瀬武雄中佐は明治元年五月二十七日、豊後藩士・廣瀬重武の二男として大分県竹田に生まれる。海兵十五期。
 廣瀬中佐の部下思いの行動は新聞や雑誌で取り上げられ、国民に深い感銘を与え、「軍神」と崇められることになった。
 勲功を記念するために神田須田町銅像が建立されたのは、明治四十三年五月二十九日。渡辺長男が廣瀬中佐、朝倉文夫が杉野兵曹長の原型を作り、岡崎雪声が鋳造した。須田町という繁華な場所にそびえたつ銅像は、終戦まで戦意高揚の広告塔としての役割を果たすことになる。
 文部省唱歌にもなり、大正元年十二月十五発行の『尋常小学唱歌(四)第四学年用』に採択された。

◎『廣瀬中佐』
 一、轟く(とどろ)砲音(つつおと) 飛(とび)来(く)る弾丸。
荒波洗(あろ)う デッキの上に、
闇(やみ)を貫く 中佐の叫(さけび)
「杉野は何処(いずこ)、杉野は居(い)ずや。」
二、船内(せんない)隈(くま)なく 尋(たず)ぬる三度(みたび)、
呼べど答えず さがせど見えず。
船は次第に 波間(なみま)に沈み、
敵弾(てきだん)いよいよ あたりに繁(しげ)し。
三、今はとボートに うつれる中佐、
飛(とび)来(く)る弾丸(たま)に 忽ち(たちま)失(う)せて、
旅(りょ)順(じゅん)港外(こうがい)恨(うらみ)ぞ深き、
軍神(ぐんしん)廣瀬(ひろせ)と 其(そ)の名残(なのこ)れど。
 (歌・清水ひさ子、ニュー太陽・S10006A)
 レコードも各種吹き込まれた。大正初期のメノホン(歌・住田チエ子)が古く、大正6年頃のスピンクス(歌・大久保文枝)にも吹き込まれている。昭和に入ってからはニッポノホン、ビクター、コロムビア、ポリドール、キングなど各社から出ている。
 なお、文部省唱歌『廣瀬中佐』が生まれる前に、同名曲がレコードに吹き込まれているので参考に取りあげておこう。このレコードは明治四十三年のライロホン盤。歌詞は、「七生此の世に生かへり 帝の仇を絶やさんと・・・」という歌いだしである。このほかにも何曲かあったが、なんといっても広く歌われたのは、平易な叙事詩風の歌詞で、旋律も歌いやすい文部省唱歌の『廣瀬中佐』であった。
 この歌、昭和三十年代に運動会や学校行事のときよく演奏された『若い力(若い力と感激に・・・)』と最初のところがちょっと似ている。国民体育大会歌として作られた歌だ。中高年の方なら懐かしく思われることだろう。

浪花節や琵琶の演目にも
 廣瀬中佐や杉野兵曹長の逸話は、唱歌だけでなく浪花節や琵琶や講談や詩吟や児童劇や紙芝居などさまざまな芸能となり、舞台で演じられたりレコードに吹き込まれた。
 天中軒雲月が得意にした「銅像を涙で洗う女」と副題の付いた『杉野兵曹長の妻』は昭和十一年一月テイチクから前編・後編各二枚組で発売され、大ヒットとなった。これは杉野りう子未亡人と残された三人の子どもの物語。子どもの学費を稼ぐため納豆売りをしているりう子が、須田町の銅像に向かって、肩身離さず持っている夫の手紙を涙ながらに読み上げ、自分の懐より白い布を取り出し、つま先立ちして伸び上がり、銅像のほこりを拭い清める場面が聞かせところであった。
 廣瀬中佐の銅像は昭和二十二年、平和の願いをこめて撤去された。撤去するとき、下にある杉野兵曹長の方は無事台座から下ろすことができたが、高い方の廣瀬中佐は、いきなり像身に綱をかけて引き倒したために、頭から転落して、さすがに神田っ子たちは見るに忍びなかったとのことである。『濹東綺譚』などの挿絵で有名な洋画家木村荘八は、銅像撤去の感想を「三十八年唯一夢」と漢詩風の言葉で残した。
 銅像撤去と共に唱歌『廣瀬中佐』も人々の記憶から消え去っていった。(岡田則夫・記)
(掲載誌・神保町のタウン誌「本の街」)