「神田のうた①」『神田小唄』

「神田のうた①」『神田小唄』

「神田」にちなんだ歌は数々あるが、『神田小唄』は学生たちをテーマにした最初の歌ではないかと思う。二村定一が歌うジャズソングである。レコードは昭和四年四月、日本ビクターから発売された。この曲がヒットした昭和四年は、恐慌と不景気の真っ只中で、大学・専門学校卒の就職難は深刻化しており、「大学は出たけれど」という言葉が流行語になったほどである。当時の新聞には引く手あまただった帝大生ですら、就職にありついたのは三割程度だと報じている。
 しかし、二村はそんなことどこ吹く風といった浮き浮きとした調子で歌っている。学生生活を謳歌する躍動感がこの歌から伝わってくる。

◎『神田小唄』
時雨音羽・作詞、佐々紅華・作曲、二村定一・歌

一、肩で風切る 学生さんに
  ジャズが音頭取る 神田 神田 神田
  家並家並に金文字かざり
  本にいわせる 神田 神田 神田
二、靴は流れる 朴歯はひびく
  街はあかるい 財布は軽い
  思い切るように ニコライ堂
  鐘が鳴る鳴る 神田 神田 神田

 今も昔も神田は学生と本の街。この歌が歌われた当時も神田は学生たちの本拠地だ。駿河台に明治大学、錦町に中央大学、三崎町に日本大学、今川通りに専修大学、一ツ橋に東京商科大学、三崎町に東京歯科医学専門学校、錦町に電気学校と東京工科学校。商業学校は三崎町の東洋商業学校、錦町の錦城商業学校、美土代町には大原簿記学校、一ツ橋通りの村田簿記学校、小川町には正則タイピスト学校もあった。ほかに、日本高等予備校、開成予備校などの予備校もあった。中学も多く、三崎町の大成中学、錦町の錦城中学、西小川町の東京中学、中猿楽町の順天中学。学校名を挙げるだけで誌面が埋まってしまうほど、神田はあらゆる学校の密集地だったのである。このように神田はさまざまな学校に通ういろいろなタイプの学生たちが、自分たちの庭のように「肩で風を切って」街を闊歩していたのだ。
 作詞の時雨音羽は明治三十一年三月十九日、北海道の利尻島で生まれた。本名池野音吉。大正七年、日本大学法科に入学。大学卒業後大蔵省主税局に勤務しながら作詞活動を開始する。雑誌『キング』創刊号(大正十四年九月)に「朝日を浴びて」を発表、これが「出船の歌(♪ドンとドンとドンと…)」と改題され、中山晋平の作曲、藤原義江の歌でビクターから昭和三年二月に発売されヒットとなった。続いてやはり晋平・藤原コンビの『鉾をおさめて』がヒット。同年ビクター入社。昭和四年一月には『君恋し(♪宵闇迫れば…』が大ヒットした。
 時雨音羽は神田との縁も深い。日大生時代、神田仲町で友だちと民家の二階で間借り生活をしていた。仲町は現在の北神田一丁目あたり、上野方面に向かって万世橋を渡った左手の一角だ。今は秋葉原電器店街になっている。この歌も神田で過ごした時代の経験がもとになっているのである。
 さて、その頃の学生たちの生活ぶりはどうだったのだろうか。
 地方から出てきた学生がまず決めなくてはならないのは住むところ。親戚知友がない人は賄い付きの下宿か、間借りして自炊するか、
県人会その他のツテを求めて宿舎に入るかのいずれしかなかった。今と違って住宅情報誌などという便利なものがなかった時代である。大正十一年版の『東京遊学学校案内』の編者は、新聞の「貸借間」の広告で見つけるか、自分で広告を出すか、あるいは丹念に歩いて「貸間」の貼り紙を探し歩くのがよいとアドバイスしている。下宿代は六畳間で十五円、それに食事代が三十円で合計四十五円位はかかったから、親の経済負担も大変だった。しかし、親の苦労もなんのその、東京の生活に慣れてくると、仕送りを遊興費に遣い果たし、下宿代まで踏み倒して、下宿を転々とする「下宿食い」と呼ばれるツワ者もいたそうだ。下宿屋がたくさんあったのは裏猿楽町(明大の裏あたり)や表神保町界隈。【私の事務所のあるあたり】
 住むところの次は食事だ。外食となるとこれまた大変。今はどこにでも学生相手の食べ物屋があるが昔はそういう店は少なかったのである。時雨音羽は近所の弁当屋から配達してもらっていたが、おかずにサメの煮付けが毎日のように付いてきて閉口したと自著に思い出話を書いている。新鮮なサメはハンペンの良い材料になるが、ちょっと古くなるとアンモニア臭くて食えたものじゃない。安い弁当だったのだろうが、サメ攻めには利尻島で新鮮な魚を食べて育った彼も驚いたことだろう。仕送りが途絶えてピンチになった学生には、昌平橋近くにあった神田慈善協会経営の「昌平橋食堂」が救ってくれた。この食堂は大正七年十月、非営利の社会事業として開業、一食十銭で提供した。昭和三年には月平均四千人に近い利用者があった。
 次ぎは「衣」であるが、絣の着物に袴、朴歯の下駄を履き、そして学帽をかぶるというのが標準のスタイル。朴歯の下駄は高さが十センチくらいもあり、今でも応援団が履いているあれである。詰め襟の学生服を着る学生が増えたのはもっとあとからだ。
 昭和に入ると神田の学生街の様相も変わってくる。関東大震災後増えたのがカフエーである。今のすずらん通りの裏通りあたりには、「ザンバ」、「センチメンタル」、「カフエー・カナリヤ」、「スズラン」などのカフエーが続々と開店した。そして、白昼から蓄音器でジャズを鳴らして、授業をエスケープして通ってくる学生たちを集め、別天地をつくっていたのである。『神田小唄』の三番の歌詞は、そういった学生風俗をあざやかに描いている。「♪ジャズは流れる レコードはまわる 赤い灯かげにゃ ボタンが光る 白い蝶々かエプロンさんか 下駄が音頭とる 神田 神田 神田」。
 今も昔も行き着くところは同じのようだ。
岡田則夫・記)

(掲載誌・神保町のタウン誌「本の街」)